わくらばの伝言

関羽になるな!


スーパーコンピュータ時代に

年に一度の、大戦考察

車社会の進歩と未来

実用化に向けて、試験運転を経てハード&ソフト的に課題を克服しつつある現在、この車は、生活のどの部分に入りこむのであろうか?この問題の前に、車が好きである事、は将来に伝ノスタルジーが働き過ぎて、なかなか描ききれないものと思う、私は車が好き、の一人で、この好きを前面に出してしまっては全く以って未来像の足を引っ張る程度の事しか出来ない、と思うから、ただただ、家族の便利道具と思うだけの、運転も出来ない幼子の心に戻る必要がある、と考えてる。果たして、そう成り切れるものかどうか?でも真摯で真面目と言うのか?心のある生活をしていれば、そんなご足労もいらないかも知れない。日本においてモノ作り工場は、きわめて実直誠実で、しかも先端を走っている。この工場は必然で成った姿と言うなら、未来の車は、既に向上のあちこちで働いているのだろうし、従業員との関わり密度を見れば将来の車の有り方だろう。その向上に協力会社が有れば、その交流も車の有り方ケースだろうし、従業員の出勤退社でも将来の車をを見ようとすれば見える。これは合理化から読み取れる将来の車の未来。ここに見えないものは、楽しい生活の中の未来の車。感情封入の籠った「好きな車、好きになる車」は人々の生活の中で育まれる。とすれば、今の例えで、この向上以外の外周沿革に想像を働かせねば成らない。つまり今、大都市集中の生活は合理の終幕に近くて車の未来想像も広がらない。ポイントは別世界の開発。地方開発田舎開発になるでしょう。現実に、都会では免許すらいらない、と言う。地方では車無しでは生活が出来ぬと言う。しかしながら都会と地方を同等に均せと言う事では無い。唯一無為に開発をと言う事ですね。とと、これは想像未来でも有るが、もう1つ、鉄腕アトムのような創造未来は、まず子供の心に立ち返らないと資格は得られない、だが鉄腕アトムには正義、勇気、未来が描かれていても、未来の豊かな生活の楽しみは描かれていない。創造は何時でも抱けるが、楽しみとか美しさの愛しみは、心の情操に掛かってくる訳だ。けど、人の心を誘導するなんて事は思い上がりでしか無く、「共に遊ぼう」世界だから、真面目に考えれば考える程、当たらず外れる事になる。真面目で成せる事は、準備万端。その準備とは?ナンバーワンの機動力を常時持つ事。最低線、これがあれば、後塵を期す事は無い。創造は私のテーマでも有るから、追々、思い付いた事を、ここ、ここに表して行こうと思う。創造は、「人々の為」の心根が発創元ですから、まず心を磨かないと(はっ?笑)

工場を見渡した最新鋭テクノロジーで早い実用化が期待されるのは、もう既に実験段階と思いますが、救急車、消防車、地方に行けば、除雪車、販売ストアーカー(移動自動販売機)でしょうか?鉄腕アトム的な夢を見れば、住所=移動ホーム自動車 =水陸空自動車 =地震非難自動車、=診察カー=町内パトロールカー=次から次と湧き出てくるが、関わりあう個人が一個に返れる「隠れ家的であり、人馬一体の同僚的、戦友的な」付き合いからのモノとの愛情。これは日本人特有かもしれないが、その空間が未来創造の中でどう繋がって行くか? おそらくはここが難題なのだろう。 言わば「マス憧れ」「マス・ブーム」「マス・ライフ」で動めく人間社会は、個人飛行機、個人ドローン楽しみ共有は出来ないだろう。目的地までのくつろぎと楽しさはグループ移動も出来て最上級だ。この際上級を壊すとしたら、経費負担の大きさと楽しみが孤立(一人楽しみ)に至った時。今がその時で、その時でさえ車は、乗らなくても不要扱いにはならない、案外、この道路とゴムタイヤ関係がが優秀で変わるものが無い、車が変わるとしたらそれは、道路が変わる時。

実は、この時代に、消えて良い筈が、未だに消えないものが有る。それは「腕時計」「掛け時計」。現代は携帯電話、家にはTVいずれの時計同等以上の時間表示が有る。少なくとも家庭内において時間を知るに関しては、もう用が足りているし、不用と言っても異論も無いものなのに購入し、身に着け、リビングに掛けている。こんな不合理も人間は選ぶんですね。本当ならば、車と言う存在も時計のように傍に起きたものなのでしょうけど、税、燃料、保険経費が許さない。車の魅力だけをスキルアップして、進化させて車社会を維持しようとしても今の経費情況では無理な気がする。その表れが、若者の車離れ。車を持たなければ、海外旅行も毎年行けるんだから。興味が無い、のではなくて優先順位が上がらない、これからも。良好もで もしこれからの車を考えるなら、この経費負担以上に、得が有る、と似合う楽しみを作れる、と言う車。

これは日本人特有の感覚かもしれないが、車は誰にも邪魔されない教会の告解のように自分を曝け出せる部屋であり、例え与えられた営業者で有っても、自分と向き合える個室の感覚。よく「車は運転者の本性が出るスペースとも言われる」その因の事故も起こる。良くも悪くも、これだけのパーソナリティの現れるスペースは他に無い。「車」特有のマジカル部屋。この力を含めて車の魅力は、野球のバット磨きグローブ磨き、道具を大事にする日本人の心は、車と言う道具を愛して止まないもの。その車を持つ事を諦める若者が増えている事は、職人と職人技を失うような寂しさを感じる。あまつさえ仮想世界のゲームの楽しみに浸り、現実感の車運転の楽しみを越える様は、本当に寂しさを思う。

今後の車開発で幾多の魅力を加えようとも、車を持ちたい心まで届くのか?例えば、事故を避ける車の保険料が安くなるとか?税金が安くなるとか?エコカーが減税なら、出来る筈で、ここを目覚めさせる車開発も望まれる、と思う。5年車検とか?持って維持整備費を軽減する車の開発。車が一番売れた時代、それは中流意識の時代だと思えば、車は中流以上で売れるもの。税金がそう言うレベルでは、新車魅力も輝く事は無い、のでは?

しかし、車と言う販売台数を増やす為の進化をさせるのか?を、いくら考えた所で的には当たらないだろう。と言うのは、車と言うものの基本は、道路の独楽、だからである。むしろ道路が変われば、車も変わらざるを得ない、これは必然なのだ。「門から門まで」と言われた車。「家から家まで」となった道路には、どんな車?雨風雪の無い道路で走る車って。劇的に車が変われるのは、道路の進化?車だけの進化というのは、ハンドバックの中に何を入れるのか、に留まってしまうのかも。の限定ににしか成らない。

ただ、運転手が要らない車、運転手が要る車、運転をしたい車、運転が出来ない人の車。今現在も様々な使用と目的を持っているのも車で、混在している車社会も、1つの暗黙のルールで運営されている。それは、交通法とかのルールではなくて、ドライバーとしての仲間意識と言うのか?ドライバー自身が持っている車社会意識。今、あおりだのと悪質ドライバーが目立っているけれども、本来、車をスムースに流す事を正しいとする、ドライバー意識に囲まれて日本の車社会が成り立っている。ここに、無人やロボットドライバーが混在してくるのに法優先のプログラムで車を流されたら、渋滞解消どころか?倍増以上の結果に成るだろう。ここにこそ、自動運転の課題が存在すると思っている。

車を持つ、主目的とはなんだろう?通勤車、営業車、商用車、農業車、人と荷の運搬車、家族移動車、送迎車、、、並べてみると、そもそも車は、モバイルなんですね。そして以後、PC,AI技術でもっともっとモバイル性格を強く持って車は生きて行くだろう、けど気にするのは、人が操る車がどう?進化して行くのか?車と言う存在の自由と言う世界。これはモバイルへの発展と同調出来るのか?今の処、自分の頭では、同調しない、の肩を持っているのだが、これを言うと年寄りのノスタルジー描きの様で気が引ける。結局は自動洗濯機のように洗い物を要れ入れ、スイッチを押して、洗濯作業を忘れた人間に成って行くのかなあ?形や走行的には、車は道路の進化と共に変化して行くとしても、進化に認印を押すのは、現代のユーザーたちだから、ユーザーが憧れて欲しがる車が技術とは別に残って行くものと思うから、大事な事はユーザー、ユーザーに成る得る人達の感性に響く車。その上で、まずはここの多様性に答えるオプション仕様が増える事でしょうか?

その目的別、乗用車をメーカーは多様性として車種を増やしてレパートリーを構成しているのだが、一般人には、セダンもバンも同じに見えるし同じ性能に映っている。実用も遜色は見つけられないのが一般人で、メーカーサイドは、ほんの少しの広さを作って用途別の特徴にしても伝わって来ないんですよね?用途別はボディ、インテリアであってエンジン、ミッションでは無いなら、メーカーの思いほど用途別と葉伝わってこない。良い特徴と思えば、オールマイティ車と言えるけど、自動運転をキッカケとして多用途を分割独立したキャッチにしないとせっかくの自動運転も技術博物館で終わる。つまりスポーツカーに自動運転を付加する馬鹿は居ない。スポーツカーはあくまでスポーツに特化すべきでスポーツの為の技術を付加するべきで、スポーツマチックは許せてもオートクルーズは無用だ。こうして1車種、何向けの車も明確な特徴づけして行かないと将来のどの分野の車種が自動運転やハイテク運転技術が必要になるのか?解らないで潜伏してしまうだろう。一般人でも解るのは、普通車とスポーツタイプは解らないが、スポーツタイプとレーシングカーの違いがわかる。その意味でGTRは特徴売りしているし、NSXもアピールし、共に未来を暗示していると思う。

それもこれも車好きが、車生産を支えている訳ではなくて、必要目的が支えているのだから、今の風潮、オールマイティ便利車から一台づつ分離独立させて行かないと生産も伸びないし、新しい用途も見つけられない、と思う。車と言う特徴にドライブが有る。これは体験移動である。自分の頭と体を使った移動、スポーツともなれば、上達と言う上を目指すものに成る。片や毎日の食料買出し、そして今度は、呼べば来るのか?乗れば行けるのか?この違いは、旅行に行くか?動画で観光するか?に似た状況を作る。実体験か?仮想体験か?車技術は、こんなゲーム依存の延長のような世界に招き入れる訳だから、実体験世界も残るようにして欲しいもの。こういう意味でも、営業車のような実用者が販売の伸び代を持っている訳ではなくて、人の心に結び付いている部分と言うのは、人間の冒険心との結び付きなのです。冒険は人それぞれの価値観ですが、ある人は、道なき道へ、ある人はスピードの世界へ、ある人は観光のような、住い地域と違う世界を見に、車と言う機械が有って冒険が広がった。この先端に宇宙もある訳だ。車が出来て人間は何でも出来るプライドが有るようなものだ。これは未来でも原点として保たねばいけないもののように思うのだ。冒険心からチャレンジ精神、チャレンジ精神が未来を描く。したがって車はルール有るスポーツの息遣いもあるものなのだ。未来の車はどうなる?の問いに答えは出ない、答えは車を乗り、扱う事で未来も開ける。この時代に端的で側面的かもしれないが、この時代を導いたのは車社会だ。けど、現在の日本は、税金諸経費が高すぎて車を持つ人も減少、心配は当然、日本人が冒険心を無くす事かな。

未来の車社会と言って、子供のように、ただ純粋な発想を言う事も未来だろうが、所詮は、現代の進化の先に未来が作られて行く、歩みである。その歩みが止まる懸念で未来を心配してもそれは老婆心以下の気遣いだ。今の車社会は、これで良いのか?にスタートラインを設ければ、いくらでも提言は有るのでは無いか?車社会を言う時に、社会の車の役割的に評価したり、車産業的に懸念や未来を行ったり、人と物の流通からの視点だったり、でも聞こえて良い筈の声が聞こえてこない、と思いませんか?、それはオーナードライバー達の声。常に危険を隣り合わせの車移動の中で、主役はドライバーの筈の声。事故の多い少ないもドライバーの心掛け次第の結果なのに、いつもドライバーは指導される立場から変わる事は無いし、ドライバーからの正論をぶつける事もなければ、責任の重みに周りから正論をぶつけられる一方通行の罪意識の立場。それでも皆、車も運転も好きなんだ!車を運転する者は、例えば漁師のの仲間意識のような、法律、一般マナー以外に危険安全良好、助け合いのルールを持って運転している。大事にしているのは「スムースな流れの為に」つまり運行の平和。これを乱す者には、つい排他的にもなる。もう日本でも車社会はドライバー社会と言って良いほど「熟」の時代に入っていると思う。この熟を信用して、道路交通法にもっともっとドライバーの声が反映して良いと思うし、ドライバー同士の仲間意識が車社会をもっともっと熟成を果たせるように作って欲しいものがある。それは、自動車工業会主催の、車のみで受信出来るTVラジオのメディア放送だ。「ドライバーのドライバーによるドライバーの為の交通情報であり、観光情報であり、安全情報であり、コミュニティであり、エンターテイメントであり」、全国放送と地域放送の2バンド。ここから、本当の意味で車と車社会の進化が歩き出す事を願う。車産業もドライバーをもっと知り学ぶべし、で与えるばかりを反省しないといけない。それからの未来だ!

未来像を語るのも単に、心配性で言っても何も始まらない。では現在の車は魅力に溢れているのか?どう?なのか?ですが、心配で言うよりも、ノスタルジックの半老婆心的なのかもしれません。昔の車の方が「憧れた、心ときめいた」もちろん経済的に豊かになって、でも少し無理して自分の車を買う、と言う行為が「ときめき」そのものであった時代だから、それよりも、豊かになって見る車は、憧れの地位から下った面は有ろう。でも、だからこその車の魅力作りは出来た筈。例えば、おしゃれ着は、繰り返し繰り返し買い替え、着替えであるけど、トレンドが後押ししても、自分に似合うか?にときめく。今、車って自分に似合うか?なんて、選択条件だろうか?似合うに合わないなんか、もう諦めている。選挙のようにエコとか無駄のない合理で、変わらないと諦めている。気に入って買って貰うにしたら、そのサービスが足りない。そう思いませんか?車も今や下駄、スニーカー。でも履物も買うに至っては、自分に合うかでおしゃれファッションで悩むもの。色使いも、付け加えもフリル、アップリケ、そうアートのように一部に無駄もないと、心休まらないのだ。馴染まないのだ。車は乗った人を格好良くする。センスアップする。そんな車作りの心が、今の車には伺えない。コンピュータでエコの合理性、使いやすさの追求も大事だけれど、乗るその人の人格やセンスアップ、イメージアップ、恋人とで似合うそんな車は、今は無い。これを魅力無しと言うのは、早計でも、無くなったものは、車を家族として一緒に写る写真をもう撮らなくなってしまった車。これをメーカーはどう考えるのか?

車と言うものが変わる究極は?と言えば、それは車輪、タイヤを卒業する、と言う事になろう。タイヤを無くした乗り物と言えば、ドローンの進化系か?エアーカーのようなものか?ただ運輸、貨物乗り物と言うものは、結局のところ、人の集合場所に向かうもので、そうすると航路、道路、線路、と言うものが必須で、無規則無軌道で、飛んだり走ったりするものは、基幹、動脈には成りえない。むかしむかし、線路を作れば、道路さえ作れば、後は技術が血液を造るように進んできた今日の交通社会。道路の次は?何なのだ?がこれからの未来の生活動脈。思い起こせば、子供の頃の漫画や未来社会の予想図では、大都会をパイプ道路が張り巡り、乗り物がパイプ内を駆ける。半重力の乗り物が、ホコリの立たない道路を流れる。これらが未来に現れるとして、越えるべきは、今現在の全天候で動き回る車の安全性と強さ。車がさらに安全で強くて信頼が増す限り、新乗り物は、先の登場となる。残念ながら、車の進歩で未来の乗り物は見つからず車は車。革新発想で、新たな道路に変わる物流動脈が現れたならすべてが変わる。今そんな段階だが、もし、未来像を描くとしたら、側面的に、この道路に代わる動脈を想像する事も重大な案となる。車の自動運転が叶ったとしても、道なき道をも走破する車のユーリティは幅広く車の進化はオールマイティ化ではなくて、可能性はユーリティの分派進化が、先に起こるような気がしている。

モータリーぜーションの終えた国、ほぼ同様であろうと思うけど、皆に買われる車を考える時、そのシチエーションは大人口の入る都会をイメージすると思う。マイノリティな田舎を思って車設計はしない、と思うのである。一度、車が普及した国は、その密着生活が明らかになる。その密着、車依存度と言うものは、むしろ人口の少ない田舎高齢化社会である。都会には移動手段をセレクト出来るが、田舎では車1つ。と言う事は、自動運転車を最も望んでいるのは、田舎社会であり、必要とするのは身体衰え未満の高齢者。自動運転車のデビューも煌びやかな都会で成されるのではなく、実質、実益の田舎で成されるべき、と思う、これが分派進化。

既に日本では、自動運転車は実験段階だが、自動?と成ると、運転手が居なくて持ち主だけが居る?ならば責任は所有者がすべて請け負って、免許なしで乗れる?それならば、運転手なしの自動運転車を実験すべきで、その方が将来、未来の「車」が描きやすい。その初歩の初歩的技術、運転手の居るオートクルーズ車はどれだけ活用されているか?を考えると、運転手が居ると言う前提では、これ以上の技術発展にいは伸びて行く先が無いと想像出来る。この場合は、一挙にドライバなし、運転席も無しの方が技術の伸びる先が広がる。そこから、申し訳程度の運転席を設ければ良い。さて、移動席のスタイルだが、当然、移動中もデスクワーク、コミニュティからデスク、テーブル円卓会議の集合スタイルになるだろう。安全、安心も社内で動いて活動する人の体を守る、スタイルにステージアップしないと、モバイルカーにはならない。むしろ自動運転車よりもこちらの安全対策が進めば、モバイルカーを引っ張り挙げてくれるんだと思えるほどに大事に成る。

車は当然の如く乗り物だ。何を乗せるか?何を移動させるか?何を運ぶか?それによって車の形も変わるもの。現在が、ワンボックス時代とすれば、何を乗せ、何を運んでいるのか?それは生活そのものだろう。生活に密接な車と言えば、田舎社会の軽自動車でまずは、安いが特徴で人と買い物荷物を一家族分充分に賄える広さと積載量を持つ。これぞ、リーズナブル生活車、と言える。これに馴染んでしまえば、それ以上の車種は、贅沢趣味車のマーケットエリアだ。これを踏まえても、日本は車維持費が高い、と思っている所有者の声が聞こえてくる。ただこれは、現代の生活観で、形成されているシェアであって固定的なものでは無い。その昔、アウトドアブームの時代には、RV車が持てはやされたものだし、この先背ダンスポーツ車主流になる時代かも知れ無いし、はたまた、新コンセプト車が現れるかも知れぬ。どこへ行こうとも家庭内感覚で移動出来る車。家庭別室移動車と言うか、家の衛星のような車、住所が乗用車、こんな事を可能にする新車種も出て来るか?生活が進化して変わって行く、伴って所有する車の用途も変わる。車は道具である以上、これを先行し過ぎては糸の切れた凧になる。アナログ人間もデジタル人間もデジタル車は乗れる。デジタルが人を選んでしまうと誰にも嫌われる、者。技術は、先行する事は宿命だが、人に与えるものは、半歩先のものにしないと嫌われる技術に成る。中級意識の生活車の多い日本は、半歩先の生活を描き易いのだから、新コンセプト車は、日本から次々と生み出す事が出来る筈。

人の生活を支えるとは?衣食住にいかに関わるか?でしょう。車が生活を支えると言うのも、やはり衣食住に如何に関わるか?関わりの強い車が「生活車」当然に位置づけは「生活に欠かせない車」と言うレッテルが貼られる、その車とは?、日本においては「軽自動車」になるのでは無いか?ついでワンボックス普通車。まず、維持費が安くて、自分+人が運べて、食料衣料、そして定位置家財以外の小家財も普通車と同等に運べる。車サイズも荷の量も大きさにも不足なしなら、等身大の生活車と言える。これ以外の車と成ると、それは服で例えるなら生活着ではなくて、おしゃれ着か?正装着。これらが売れるのは、やはり生活ステージが上がると言う雰囲気の中でしか売れない。こんな理屈は既知の当たり前、は言うにも憚るが、ここ30年は景気が言いと言いつつも生活ステージが変わる雰囲気は作れなかった時代。夢と憧れの生活を描けなければ、生活車以上は売れない、この結論に、どうするか?「製造業の神話、良いモノを作れば売れる」神話が落ちた訳ではなくて、車が売れた時代と売れない今、もう1つの神話が聞こえなくなった。それは、売る側も買う側も生活のレベルが上がる、と言う共有が無くなった。つまり憧れの車を購入したら、生活を落とさねばならない現代の景気。これは自動運転車以前の問題である。高度成長期であれば、老若男女皆が期待してその日のために身構えたものだが、期待や夢、憧れる、そんな余裕は無い。有るという人達は、車を造っている人達、と言うなら、なんとも皮肉な話では無いか。消費者を増やさない、創らない、この経済から見直さず、消費者は雑草の如く自然に育つと言う間隔の中では、まず持って夢を描けない。造る側が、夢見て憧れた未来儀中も、買う側は、未来技術も白けた絵空事。30年以上経っても、「いつか誰かが、やってくれるだろう」の時間が止まったまま。会社が成長すれば景気健全、では無くて消費者と共に成長して景気健全、の実質が無ければ、未来は足踏みするばかり。消費も夢も憧れも胎動しない。

自動運転車が世にデビューするには、クリアーすべきハードルの多さはある程度解り、後は前進的になるか?保守的に成るか?前進するに、手早くはハードルの合間を縫って進む事。保守になれば、ただただハードルを増やすだけでハードルを越える助走さえ出来ず佇むだけで終わってしまいそう。普及にはONドライバーとドライバーLesの2車種送り出しで始め、ドライバーLessは、買い物車とし、ドライブスルーショップ(スーパーマーケット)で買い物をしてガレージに帰ってくる。この車種で安全の実績を積めば、有人自動運転車のスタイルが決まる。運転席に座って良し、座らなく助手席で良し、更には、円卓会議で移動、ビジネスデスクワークで移動やら、子供の送り迎えやらの発展へ導いてくれる。道交法やら、現実の道路上の車の流れ、ドライバーとのアイデンティティ、アウトロードライブからの回避。AI学習の積み重ねを経て、人間を移動の任を運んで果たす。自動運転車のまずは、所有者の分身ロボットとして働く、であろうと想定と想啓発しながら進んで行く。

さあ、そろそろ結びの項も近いけど、車の魅力とは?乗る人のパワーをアップする処。平たく言えば、アニメのガンダムか?エバンゲリオンか?人間の能力では無い力を出しコントロールして目標を達成できる。能力グレードアップこそが魅力の本質だろう、とすると嫌いと言う人は、本来、居ない筈なのです。その縮小したPCゲームのコントロールに魅力を取られて居るとしても、魅力は同じ線上にあって、削がれるものでは無いのですが、傍に置こうとしない現代。魅力欠如の問題ではなくて負担の問題なのでしょうね。「乗る気になれば何時でも乗れる」一方で、一人で移動するには負担が大きいと言う事。自動車の大変革期と叫び警鐘と危機と未来を描こうとする人々は、この現在をどう考えているのか?車の魅力はかつても現在も、また未来も変わらないし、魅力はドンドン付加され続けるでしょう。では現在の車の魅力が有っても、人々が車が好きでも、この車社会の足踏み状態は何か?集団行動の少ない単独、個人、の生活観では乗用車は過分の持ち物であり、負担の大きい持ち物であると意識とレッテルが貼られた物に成っている気がする。何度も言うが、車を好きな人が居ても嫌いな人は居ない中で、車をこんな風に成り上がらせた事に原因がある。憧れと趣味として高価な車も良い、けど経済図式として、10%シェアであって拡大の要素は低い。「活用価値のある車」、これがの伸ばせるか?伸ばせないか?が車の将来とすれば、この負担軽減こそが車の将来そのものと言える。この先、自動運転自動車は、無人では知った場合に、誰が所有者になるのか?その所有負担は軽減されるのか?これをこれを絵がけれないと個人に販売は、さらに減る、公共自動運転車になってしまうだろう。そしてまた個人所有が芽生える図式だろうから、この現在で革新すべきは、個人所有が一時消え、再びの眼醒めなど、先回りした官民一体の構想を果たさねばならない。私ももう、古い人間だから、車で言う事も、運転で言う事も自己満方言。自分の運転に勝てるのは?パトカーか?信号無視の暴走車か?レース経験者のみ、の3つ、なんて茶飲み話で言ってる輩。でも、これも楽しみな会話だったけどね~。今は懐かしい。

車の使い方と言うか?利用の仕方、あるいは乗り方と言うのでしょうか?言うまでも無く道交法さえ守れば個人の性格ほどの関わり方乗り方もあるでしょう。車と言うものが人と身近になってきた1970時代は、特殊技能として仕事に近い存在の機械もの。技量として体力も能力も培いながら車と関わっていた。つまり車を運転する為に体力維持も、車知識も必須で、走行距離さえも徐々に伸ばして行ったものだ。車の進歩、進化と共に、仕事資格から仕事用車からレジャー用になり、ファミリーカーから、パーソナルカーに、景気に左右されれば、家族行動効率の為の利便のみになって生き続ける。最初に申し上げたように、利用の仕方は人それぞれ、それで良いと思うのですが、ここに来て、車の進歩に甘えるような使い方、車は危険物、をなめたような使い方も目立って来ている。そういう意味でも自動運転カーの登場は時代合致と言える、と思っています。高齢化社会となって、いつの間にか、身体の不具合をカバーする矯正アシスト器具のような使い方が横行し始めて久しいのだ。これもニーズと言えばニーズですが、こういう使い方は、車潜像では想定していません。ただ車は、そう言う状態にも使えると言うだけ。私などは、運転が好きを、通すので有れば、車のパワースピードに合った体力、瞬発力判断力を鍛える、を心掛けるスポーツ感覚で常に鍛えを持ち続ける年配者。「車は1歩間違えば、殺人機械」はいつも抱いている。今はウオーキング時間、自転車時間は、車運転時間よりも多い。機械とは便利に隠れる凶器は、この先の時代も忘れてはならないもの。車を作る人、乗る人、お陰を被る人、危険を忘れ切るような機械は作ってはいけない。角期には、尚更の事、危険を明確にして、開発を進めなくては成らない。

  利巧の資格は、人の言う事を聞く心と理解する頭と返答をだす意思。試練は受け入れる心に現れる、物言えぬ幼なさでも、足を引きずる老いの最中でも、心が動く限り試練は来る。